私は昭和47年11月11日、東京の東村山市に吉田家の長男(一人っ子です)として生まれました。志村けんさんの東村山音頭で有名になりました、後に出会う相田翔子さんの出身地でもあります。
当時私の父は高知の猟銃メーカー「ミロク製作所」の東京支社に勤務しておりました。勤続43年、現在は高知県内の子会社を任され、より精度の高い銃を作り続けています。
余談ですが、歯科の業界の初対面というのは「お父さんはどこで開業しているの?」から始まります。私は「うちは歯医者違います!うち鉄砲屋です!」と返します。いまだかつて、「うちもやで!」と言われた事は一度もありませんし、ほとんどが驚いて目を丸くされます。すぐに覚えてもらえてラッキーです。
父は典型的なマイホームパパでした。当時の私にとって、父親は優しくて、何でも出来るスーパーマンと思っていました。ほぼ毎日、夜7:00すぎに家に帰ってきて、休日は家族でドライブに行ったり、公園に行ったり、家族で共に過ごす休日が多かったです。父は仕事の延長でクレー射撃もしていました。私が少年野球を始めてからは、よく一緒に野球の練習をしてくれました。そんな優しい父が大好きでした。
そんな父は以前はがむしゃらに働いては、遊びまくるという生活で、毎晩深夜まで酒を飲みまくってから帰ってきていたそうです。しかし、私が生まれた頃、結核をわずらい、会社を1年半休んだそうです。それ以降、自分の健康に気遣い早く帰るようになり、また周りの人への優しさの必要性にも気づいたそうです。
父には幼い頃から、次のように言われて、育てられました。
私の母は、私が幼い頃、東村山でタッパーウエアをホームパーティーで販売する仕事をしていました。いつも多くの人が自宅に集まって和気藹々としていたのを覚えています。
私が保育園の年長の時に、雨で運動会が順延となった日の午後、雨がやんだので、父とサイクリングに行きました。坂でスピードを出しすぎて、私は転んで、頭を怪我してしまいました。急遽、病院に運ばれました。幸い、傷は浅く、すぐに2針縫ってもらい包帯をして帰りました。病院から父が母に連絡すると、「仕事で今は帰れない」と、父は「子供がケガしたときにも、早く帰れないような仕事なら、辞めろ!」と言い、その仕事を辞めました。
母はその後、高知への引越し後、婦人服の店を自宅近くに開業しました。仕入れから、販売、配達と私の母はいつも働いてい ました。一生懸命、働きすぎては、身体を壊すまで働いていました。父からは「お前は頑張りすぎや!メリハリをつけてないから、そうなるんだ。」と叱られていることも有りました。しかし私はそれだけ仕事を頑張ってやりながらも、家のこともきっちりやっていた母を、家と仕事の両立ができた素晴らしい女性だなと思っていました。今も近所の人が集まる集会所のような店です。
私は「志村けん」で有名な東京都東村山市で生まれ、小学校2年まで育ちました。小学校3年生の時、父の転勤で高知に引っ越しました。都会の小学校(東村山ですが…)からの転入生という事で、少し注目されました。
少年野球をしていたので、すぐにソフトボール部に入り、レギュラーになりました。また水泳ではいきなり、学年でトップになりました。
東京でも、水泳は得意な方でしたが、1番ではありませんでした。ところが、高知ではいきなり1番になってしまい、もう完全に天狗になっていました。「自分は特別! 」あまりにも周りから、ちやほやされたので、調子に乗りすぎて、それまで普通にできた「友達と仲良くする」ということができなくなってしまい、小学校3年生の2学期の通知表で「友達と仲良くする」の項目が、「要努力」になっていました。要するに嫌われてしまったのです。大ショックでした。自分で何が原因なのかを必死で考えました。それを気付かせてくれたのが、担任の村上美和先生でした。
ある日の放課後、私が他の子に「見て見て!俺、ドリル一番!」と言っていると、それを聞いた村上先生は私の耳を掴み、『君 は「脳ある鷹は爪を隠す」ということを知らないの!』と鬼のような形相で言いました。その時、「そういう自慢をするから、人に煙たがられたんだな」と子供心に気づきました。そんな感じで少しずつ、学びながら、信頼回復に努め、また友達と仲良くすることができるようになりました。
6年生の頃には信頼も回復し、生徒会長に選ばれた事もありました。(ちょっと自慢です。すいません)私は小学校5年から塾 に通いました。それは、父の母校土佐中を受けようと思ったからです。父も、私の祖父も大の「土佐高ファン」だったので、父から「土佐に入ったら、おじいちゃんが喜ぶぞ」と言われ、受験を決意しました。土佐中学は高知県では進学校と言われている中高一貫校で、当時は高知県で一番と言われた学校でした。校風は自由で、文武両道がモットーです。最近では中谷元氏(前 防衛庁長官)が OB です。
頑張ったかいあって、私は土佐中学に入ることができました。土佐高は中でも野球部が有名で甲子園でも全力疾走で知られて いました(最近10年ほど、甲子園には出ていませんが)から、父は僕に野球部にどうしても入ってもらいたかったようでした。
当時自宅から中学まで20キロを片道1時間かけて、雨の日も風の日も、自転車で通学していました。それを高校卒業までの6年間続けました。かなり体力はついたと思います。のちにトライアスロンに挑戦しようと思ったのは、自転車にこの頃毎日40キロ乗っていたという自負があったからです。
部活は野球部に入りましたが、田舎の小学校よりはレベルが全然高く、レギュラーを取ることは難しく、そこで挫折を味わいました。私に与えられたポジションは3塁ランナーコーチでした。試合に出られない事は悔しかったのですが、自分で3塁ランナーコーチにやりがいを見出して、自分の居場所を作りました。試合の中で意外にも、キーマンになるからです。試合を作るも、潰すも、ランナーコーチ次第のところがあるのです。ホームに行くか、行かないかの判断はランナーコーチが相手のポジション、肩、ランナーの走塁の上手さも瞬時に判断して、指示を出します。それが上手く行くと、すごくうれしいのです。だから「チームの勝利のために、最高のランナーコーチを目指そう」と思いました。父からは「やるからには、一番になれ、一番のコーチになれ」と言われ、高知で1番のランナーコーチになろうと必死に頑張りました。
引退の時、ランナーコーチという裏方である私を、監督が「1塁コーチの永井と3塁の真一郎はチームに欠かせない選手だ」と名指しでねぎらってくれた時には涙が止まりませんでした。今でも忘れられない思い出です。
中学時代、父が単身赴任になって、私は一人っ子だったので、完全に王子様状態でした。家では何でも私の思い通りでした。 しかし、父が家に帰ってくると、非常に父がわがままに思えました。父の言うとおりになるのが悔しく、わがままを通せないわがままが生まれ、父が家に帰ってくるのがイヤだなと思った時期がありました。しかし、そんな時、こんな夢を見ました。
それは「家の1階に最近のむかつくわがままな父がいて、2階に行くと、昔、キャッチボールしたり、竹の笛を作ったりしてくれた当時の優しかった父がいる」というものでした。その夢を見て、昔が思い出され、「父だって、スーパーマンじゃないから、嫌なところもあって当たり前やな。」と気づき、また昔のような親子関係に戻りました。
高校に入ると、野球では1番になれないことがわかったので、野球を辞める決意をしました。しかし、野球を辞めることは父親の 「息子が甲子園に出る」という夢を壊すことになるので、怒られることを覚悟で相談すると、「野球だけが全てじゃないし、やりたいことがあるなら、それをやればいい。でも、やるからには頑張れ!」と言ってくれました。
野球に限界を感じた私は、テニス部の門をたたきました。なぜテニス部だったかというと、はっきり言って、ミニスカートの女子がいるという不純な理由でした。しかしテニス部は野球部以上に上下関係が厳しく、なめて入った、玉拾いをサボったりして、私は何度も正座をさせられ、反抗した事もありました。時が過ぎて、社会人となり、仕事をする上で、しんどい事も率先してすることの大切さを実感し、今ではそこで厳しく接していただいた先輩に感謝しています。テニスも始めるとうまくいかない事に腹が立ってしょうがなく、同じ時期にテニスを始めた人には誰にも負けないつもりで一生懸命練習しました。野球よりだいぶ練習しました。
テニスは個人プレーですので、勝っても負けても自分の責任、他の誰のせいでもないという事を学びました。結果的に高知県でベスト8まで行きましたが、インターハイや四国大会には出れませんでした。しかし一生懸命やったという自負はあったので、胸を張って引退しました。
卒業式の日に後輩が書いてくれた寄せ書き色紙に「いつも一生懸命で、決して諦めない姿勢を尊敬しています。土佐高テニス 部精神を受け継いでいきます」とありました。その言葉は今まで人に言われた中で最高に嬉しい言葉の一つです。
入学式の日に、連れて行ってもらったテニスのお花見で、新入生のくせに6年生に「僕の酒が飲めないんですかー!」とからみながらも、かわいがって頂き、その日に入部を決意!
それから後はテニス中心の生活でした。
朝7:00~8:00までテニスをしてから、大学に行き、夕方5:00まで授業を受けて、それからまたボールが見えなくなるまでテニスをして、それからアルバイトに行くという生活でした。
本当にテニス中心の生活でした。テニスをする中で学んだことは「練習の自信は裏切らない」ということです。技術的な自信はミスが続くと、「やっぱりダメなのかな」と自信が無くなってしまいますが、「誰よりも練習した」という事実は何があっても消えません。だから、ひたすら練習しました。
高校でのテニス経験があった私は、1年生から試合に出してもらえる事になりました。誰も恐れていた前キャプテンの先輩とダブルスを組むことになりました。試合に出れる事をチャンスだと思って、「頑張ろう、頑張ろう」とは思ってましたが、その先輩のあまりの怖さに精神的なプレッシャーを感じ、試合直前には気付くともみあげに円形ハゲが出来てました。
部の伝統では、1年生は審判やボーラーなどをやらないといけないのですが、「あいつはこれから部をしょって立つ人間だから、今回は、そういうのを失くそう」とその先輩は言ってくれたそうです。その先輩のためにも、先輩が卒業後もチームのため、自分が試合で勝つため、頑張りつづけました。
テニスは通常個人競技ですが、私たちの一番目標とする大会は、毎年夏に行われる歯科学生テニス大会(通称オールデンタ
ル)で、団体戦のみなんです。だから勝利を目指し、チーム一丸となって戦います。今でもその仲間との結束は非常に強いです。
そのような仲間を得た事が何事にも変えがたいと思っています。
歯学部に入ったので、私の中では目標を達成した感じがありました。しかし、「これで歯医者になれる」とは思っていたものの、「どんな歯医者になりたいか」ということまでは考えたことがありませんでした。そんな自分に「こんな歯医者になりたい」と描かせてくれたのが、私が将来、勤務をさせていただくことになるヨリタ歯科クリニックの寄田先生でした。
私が1年生の時のOB会で、先輩から「こいつは見込みがありますんで」と寄田先生に紹介され、ドキドキしたのを今でも覚えています。
寄田先生は、当時から、威張ったところが全然、ありませんでした。「俺が先輩だぞ」という感じがなく、「大学で何かに打ち込むことは素晴らしいことだ、頑張れ」と一貫して言っていたことに共感しました。 テニス部OB会長であった寄田先生は真っ赤なサーブのオープンカーで颯爽と現れました。そして口を開くとやわらかい語り口から夢を語りだすのでした。そんな姿にほれ込んでしまい、当時からあんな先輩になりたいと思っていました。
卒後はテニス部の顧問をして頂いていた岡山大学第二口腔外科の松村智弘教授に憧れ、大阪大学歯学部口腔外科に入局。「坂本竜馬のように成長するためには、もっと上を目指さないと」と思い、大阪大学に行くことを決意しました。「これまでとは 違う環境に身を置くことが自分を成長させるのではないか」「いつまでも、知った人の中で仕事をしていても、ぬるま湯になるのではないか」と思っての決断でした。これまでは比較的、順調に来ていた私の人生ですが、歯医者になったここからが挫折の連続でした。
開業医に勤めるのでなく、大阪大学に行ったのは、歯だけでなく、心を癒せる歯科医師になりたくて、そのためには、まずは体全体を診られるようになりたいと思い、口腔外科に入ることにしました。しかし、そこは今まで自分が体験したことのない世界でした。
大阪大学口腔外科での経験が今の私の臨床に大きく影響しているのは確かです。インプラントなどの小手術だけでなく全身疾 患への対応、偶発症への対応、いざという時の対応が身につきました。
学生時代からの憧れの寄田先生のもとで働ける喜びでいっぱいでした。しかし、寄田先生の治療の精度、速さに全くついていけず、最初はただの足手まといだったと思います。「今までやってきた歯医者っていうのは何だったんだろう。全然、役に立ってないじゃないか?でも、ここで働けるようになったら、どこでも働けるな。ここで、まともに働けるようになって、寄田先生の役に立てるような人材になりたい」という気持ちで一杯でした。
勤めて、2年が経ったある日、なんかの書類に、「副院長 吉田真一郎」と書いてあったのを見たときは、うれしかったです。「それだけ期待してもらってるんだから、頑張らなきゃ」と思いました。
始めは、「寄田先生のやり方を真似しよう」そこから入りました。イチから出直しです。治療の仕方、話の仕方、全てを真似しました。しかし、寄田先生と比べると、「今でも、全然、まだまだだな」と思います。
一人の患者さんに対して、アシスタントも含め、チーム全体で診ている。その大切さ、それを最終的には患者さんが喜んでくれる。
そういう姿を見て、技工士さんや、業者さん、実習生、スタッフがここは他の医院とは違う、患者さんに本当に喜ばれていると感じる、そんな素晴らしい医院なのです。そこには、これまでの歯科医師人生の中になかった愛と本当のチームワークが存在しました。
その後、徐々にではありますが、寄田先生のペースに付いていけるようになりました。今でもよく注意を受ける事がありますが、とても有り難く聞いています。ここで得たものは本当に、数多いです。
健康な人に来てもらうためには仕組みが必要だということがわかりました。歯科医院は、ただ、患者様が来ることを待ってるだけでは、痛い人だけが来るようになってしまうのです。その仕組みとして、ヨリタ歯科クリニックには、イベント、カムカムクラブ、リコールシステム、予防サロンなどがあるから、健康な人が来てくれることがわかりました。
これまでは、患者様にとって、歯医者は中に入らないと、どんなところかわからなかったのが、ヨリタ歯科クリニックでは、ホームページやタウンページからも医院の雰囲気がわかる、そういう情報発信の上手さ、医院案内・紹介カード・メールマガジン、そういうものの作製にも携わることができたので、すぐに結果につながらなくても、ひとつひとつのことをきっちりと積み重ねていくことによって、患者様に医院のコンセプトを伝え、そのコンセプトに共感した人、健康な人が歯科医院に来るということを実体験できました。
何よりも、院長の姿勢が勉強になりました。患者様を第一に考えて、喜んでもらうことは全てする。現状、喜んでもらっていても、更に喜んでもらうためにはどうするかをいつも考えている、そんな先生でした。自分は身体だけを動かして、働いた気になっていましたが、寄田先生は身体だけでなく、頭も動かしてるのです。「あー、本当に働くっていうのはこういうことを言うんだな。院長っていうのは身体だけ動かしていてもダメなんだ」ということを学ばせていただきました。また、本を読む量も一桁違ってました。
以前から、「高齢者を診るときにも、予防しないと、どんなに良い治療をしても意味がない」とは思っていました。しかし、その「予防」という言葉の本当の意味をよく理解してませんでした。ヨリタ歯科クリニックで予防をどうやって実践していくかを、寄田先生と一緒に試行錯誤したことで、自分も予防の本当の意味を理解することができました。
また、試行錯誤していく中で、予防が患者さんから評価されていくのを見ると、「予防中心という方向性に間違いはなかったんだな」と思いました。私はこの経験を通じて、「日本の未来、世界の未来を作っていくのは子供だから、キレない子供を育てるためにも、予防が本当に大切なんだ」と確信するようになりました。また、本当の予防がいい社会を作ることにもつながると思っています。
私は歯科医師になってから、ヨリタ歯科クリニックで働くまでの間は、自分がどういう方向に進めばいいのかがよく分かっていませんでした。いつも、暗闇の中を手探りで進んでいる感じでした。「本当にこれでいいのかな?」「自分はこの方向性ではいけないのではないか?」と不安で一杯でした。ですから、今、何をしたらいいのかも分からない状態でしたが、ヨリタ歯科クリニックで働くことで、自分の目指す方向性がはっきりと見えたので、あとは、その方向性に必要なスキルを磨けば良くなったので、不安は解消され、突き進むのみでした。寄田先生とは最初から、丸3年で開業するという約束もあり、それを見据えながら、開業準備を進めていきました。
何よりも、「人の役に立ちたい!」という気持ちが強いです。
一回来院してくれた人が、ずっと通い続けてもらえるような医院にしたいと思います。
たくさんの人が来て、たくさんの人が去っていく医院にはしたくありません。
そのためには、常に期待に応える、期待を上回る、感動させるような医院を作って行きたいと思います。日本語で一番美しい言葉は「ありがとう」という言葉だと私は思います。
来院された方とスタッフと自分の家族が「心からのありがとう」で溢れる医院にしたいと思います。
<よしだスマイル歯科という名前>
ウルルン滞在記のディレクターさんから「歯医者ってやつは金のことしか考えてない!なんかあったら直ぐに、『それは自費になります』って言い値のものを言ってくる。ほんと、金儲けばっかりだ!」と言われました。私は『そんなことはない!歯医者はその人の本当の笑顔を作るんだ!』自分が言った言葉に自分でもびっくりしました。
その時、自分の使命はその人本来の笑顔を創ることだと感じました。そのためのひとつの手段として、治療がある。治療は手段であって、目的ではないんだと思います。来られた方が、身も心も健康であるということ、それをサポートするのが私たちの仕事で、その来院者が自分たちの手で自分たちの健康を維持・増進できるようにすること。それが目的だと思います。
「歯の健康を守る」ということ。それは心の健康につながると思うんです。心が癒されてる人は、人にもやさしくなれるんだと思います。それが社会の中での平和、ひいては世界平和につながるのではないかと思うんです。僕のテーマは世界平和。人に言われてうれしいと思うことは、「あの人はお金持ってるね」よりは「あんまり人がやりたがらないことだけど、あの人がいるお陰で、平和なんだ」と言われることです。一人一人が優しい気持ちを持つこと、それが平和につながると、あのパッチ・アダムスさんもおっしゃってました。
私は、王道で勝負するというよりは、行動力で勝負するタイプなんです。困ってる人のところには飛んでいきたいと思います。
「お金にならないから、やらない」というのではなく、自分としては例えば、往診もしていきたいと思ってます。
悪い歯を削って・詰めるだけでは、その歯がすぐに悪くなるのは明らかです。一番大切なのは、定期健診。あと、大切なのは、セルフ・ケア。自分で、自分の健康を守ってもらえるようになることが最も大切なことだと思います。その時に、常にこちらが来ていただいた方に、喜んでもらえるものを提供しなければ、来るほうも飽きてしまうと思うので、新たな仕掛けをできるようにしていきたいです。
そのためにも、よしだスマイル歯科をわくわく楽しい医院にしたいです。痛いときだけに来る医院ではないので、様々なイベントや歯だけではない情報発信、子供に絵本を使っての読み聞かせ、創造力をつけてもらうためのレゴスペース、などなど。
行くことを楽しみにしてもらう医院、システムを重視して、モノよりも、「会いたい」と思ってもらえるスタッフの存在が欠かせないと思います。
ですから、治療と定期健診だけでなく、母親教室も開催していきたいと思います。虫歯にならないおやつの食べ方、食事の躾、キレない子供を育て方、ガマンを教える。そんな母親教室にしたいです。
うちに来た子供たちが、私たちがイキイキと働く姿を見て、「私も将来、歯医者さん、歯科衛生士さんになりたい」と思ってもらえれば、最高に嬉しいです。私の後輩の歯科医師がうちの医院を見に来たときに、「これから歯医者になっても、ロクなことないよ」と暗いことを言うのではなくこれから、「歯医者はスゴイよ、やりたいこと、楽しいことが山ほどあって良いよ」と夢を語れるような、そんな歯医者になりたいです。
そんな夢のような医院を作る上で、一番大切なもの、それはコミュニケーションだと思います。前は、コミュニケーションは簡単で、当たり前のものだと想ってました。最近は、良いコミュニケーションを取ることは本当に難しくて、かなり科学がいると思ってます。ただ、しゃべってるだけでは、本当に「健康の大切さ」「自分で自分の健康を守ろう」と想ってはもらえません。来院していただいた方、スタッフ、そして家族と良いコミュニケーションが取れるような医院にしていきたいと考えています。
スタッフ全員が一体となりよりよい医療につなぐ
ここ箕面の地を選んだのは、岡山大学歯学部卒業後、大阪大学歯学部口腔外科へ入局し、初めて住んだここ箕面の地を愛したからです。
緑が多くありながら梅田まで20分程度というアクセスの良さから、漠然とこんな所で将来開業できたらな、というイメージを抱いていました。
実際にこの地で開業を決めた当初は小高い丘状の土地だったのですが、患者さんの目線に合わせて低くして、道路から見てもここが正面入り口とすぐにわかるように、誰でも気軽に来やすい医院を意識して開業しました。
しかし実はスタッフとの関係は良好とは言えず、初めの数年は悪戦苦闘していたんです。自分の力不足と余裕のなさが原因だとわかっていても、なかなか歯車がうまく回らず、医院名のとおり「みんなスマイル」を心がけていたのに思うようにいかないのが実情でした。
そんな矢先、以前の職場で一緒に働いていた衛生士の方が当院で働いてくれるようになり、それが自分自身を見直すきっかけになりました。
「うちで働いてくれるスタッフに感謝しよう、期待に応えられる院長になろう!」と、言動や行動に気を付けるようにしたところ、どんどん院内の雰囲気が良くなりました。
スタッフ一人ひとりの最大限のパフォーマンスが集まって当院があると思いますし、今はどこにも負けないくらい高いモチベーションを持つスタッフの集団であると誇りに思っています。
50代、60代の方にも満足していただけるように落ち着いたホテルのラウンジのような空間にしようと思い、沖縄のホテルをイメージしてつくりました。
琉球ガラスでつくったステンドグラスや海の中をイメージしたスカーフなどを飾り、緑豊かな箕面でありながら海も感じられる落ち着いた空間づくりがこだわったところです。
また、いつも頑張ってくれているスタッフにも落ち着いた空間で安心して働ける場所を提供したいなという気持ちも強くありました。